2005年 06月 06日
靖国の分祀論、そして新たな国立追悼施設建設論を排す |
更新が大幅に遅れてしまった。多くのお出でいただいかたにお詫び申し上げる。原因の第一は、何と言ってもここのところの忙しさにあるのだが、他方、この間の最大の問題が、一貫して小泉首相の靖国参拝問題であったこともある。
というのは、この問題については、筆者はすでに5月18日付けの拙記事「靖国参拝問題について」で、筆者としての見解を述べており、それ以後一週間半ほどの間、この問題に関する様々な報道がなされたが、上記見解は、まったく揺るいでいない。
あえて補足することがあるとすれば、マスコミ報道に対する違和感だけである。例えば、5月26日の森岡正弘厚生労働大臣政務官の発言に関する報道については、e_r_i_c_t 氏のブログ「不可視型探照灯」、「朝日新聞の「森岡代議士」発言が、社説と記事とで違う。しかし……」や、gori氏のブログ「Irregular Expression」、「嘘吐き朝日新聞は森岡議員に謝罪せよ」などが詳しいが、朝日新聞が森岡政務官の発言を歪曲してしまったのは、結局、マスコミが1953年8月3日の第16特別国会(衆議院)での「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案」を把握していないからなのではないだろうか。もしそうだとすれば、勉強不足も甚だしい。他ではともかく、本ブログでは、8月3日と日付まで特定しているので、国会図書館のホームページから議事録検索して頂ければ、どういう議論であったかも、確認していただけるだろう。
ただし読売までが、6月4日付けの社説で読売社説「靖国参拝問題 国立追悼施設の建立を急げ」をかかげた。筆者は、先の5月18日にも述べたとおり、この国立追悼施設建設に対しても、完全に反対である。やはりもう一言コメントしておかねばならないのではないか…と思い直した。
例によって、本ページでは、この読売社説を全文掲載する。(これに対し著作権云々を問題にする向きもあるようだが、筆者は、そういった議論こそ「言論の自由」に対する大きな挑戦であると考えるので、遠慮無く掲載させていただく。)
小泉首相は、いったいこれまで、どのような歴史認識、歴史観に基づいて靖国神社に参拝していたのだろうか。
2日の衆院予算委員会で、小泉首相は民主党の岡田代表の質問に答弁し、極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪とされた、いわゆるA級戦犯について「戦争犯罪人であるという認識をしている」と述べた。
“犯罪人”として認識しているのであれば、「A級戦犯」が合祀(ごうし)されている靖国神社に、参拝すべきではない。
連合国軍総司令部(GHQ)が定めた「裁判所条例」に基づく東京裁判が、国際法上妥当なものであるかどうかについては、当時から内外に疑問の声があった。インド代表のパル判事による「全員無罪」の判決書はその典型である。
フランス代表のベルナール判事や、オランダ代表のレーリンク判事も、裁判所条例の合法性や、国際法上の適用に疑問を表明した。
また、サンフランシスコ講和条約発効後、いわゆるA級戦犯の刑死は国内法上は「公務死」の扱いにされた。
「A級戦犯」として禁固7年とされた重光葵氏は、戦後、鳩山内閣の副総理・外相となった。終身刑「A級戦犯」だった賀屋興宣氏は、池田内閣の法相を務めている。言うなれば“犯罪人”が法の番人になったわけである。
しかし、「A級戦犯」が閣僚として、“名誉回復”されたことについて、諸外国からとりたてて異議はなかった。
そうした歴史的経緯から、いわゆるA級戦犯は、「戦争責任者」ではあっても“犯罪人”ではない、とする議論も根強くある。
いわゆるA級戦犯が、靖国神社に合祀されたのは1978年のことである。翌79年に、そのことが明らかになるが、当時の大平首相、次の鈴木首相は、従来通り、靖国神社に参拝している。
大平首相は「A級戦犯あるいは大東亜戦争というものについての審判は、歴史が致すであろうと私は考えております」として、いわゆるA級戦犯が“犯罪人”であるかどうかについての認識表明は留保した。
小泉首相は、岡田代表の質問に答える中で「首相の職務として参拝しているものではない。私の信条から発する参拝」と述べ、私人として参拝しているとの立場を表明した。
私的参拝であるなら、参拝の方法も考えるべきではないか。昇殿し、「内閣総理大臣」と記帳するのは、私的参拝としては問題がある。
公的、私的の区別については、三木首相が1975年に参拝した際に「私人」と言って以来、関心の対象となったが、その後の首相は、概(おおむ)ね公私の区別について、あいまいにしていた。
鈴木首相の時代には、公私の区別についての質問には答えないという方針を打ち出している。
しかし、小泉首相のようにはっきりと「首相の職務として参拝しているものではない」と言うなら、話は別である。
首相の靖国参拝を巡っては、以前から「問題解決」の方法としてのA級戦犯分祀論がある。だが、現在の靖国神社は、一宗教法人だ。政治が「分祀」せよと圧力をかけることは、それ自体、憲法の政教分離原則に反することになろう。
「分祀」するかどうか、あるいは「分祀」できるかできないかなど、祭祀の内容を解釈するのは、一宗教法人としての靖国神社の自由である。
ただ、国内にはさまざまな宗教・宗派があり、現実に、宗教上の理由からの靖国参拝反対論も多い。
靖国神社が、神道の教義上「分祀」は不可能と言うのであれば、「問題解決」には、やはり、無宗教の国立追悼施設を建立するしかない。
小泉内閣の誕生した2001年、福田官房長官の私的懇談会が、戦没者の追悼のあり方について検討を進め、翌年には国立、無宗教の追悼・平和祈念施設の建設を提言する報告書をまとめている。
どのような施設にするのか、どう追悼するのかといった点で、報告書は具体性に乏しい面もあるが、早急にその内容を詰め、新しい追悼施設の建立に着手すべきだろう。
米国のアーリントン墓地には、外国の元首などがしばしば献花を行う中心施設として無名戦士の墓碑がある。
国立追悼施設も、屋外施設でよい。東京都心の新宿御苑の一角に、記念碑のような追悼施設を建てればいいとの議論があるが、十分に検討に値する。
毎年、8月15日に政府が主催している全国戦没者追悼式は、従来通り東京・九段の日本武道館で行えばいい。
ただ、小泉首相が靖国参拝をやめたからといって、ただちに日中関係が改善されるわけではない。
もともと、A級戦犯合祀が明らかになった後も、大平、鈴木首相の靖国神社参拝に対し、中国からの表立った異議はなかった。
異議を唱えるようになったのは、1985年に中曽根首相が「公式参拝」の形をとってからである。中曽根首相はその翌年に、中国の抗議に屈して、靖国神社への参拝を中止した。いわば中国に外交カードを与える結果になった“失政”が今日の混乱を招いた。
その後、天安門事件で共産党統治の求心力に危機感を抱いた中国は、「愛国・反日教育」の強化に転じ、年々歳々、膨大な数の反日世代を育て続けている。
4月に行われた反日デモのスローガンは、当初、日本の国連安保理常任理事国入りの問題であり、台湾問題だった。
今後の日中関係を考えるうえで、そうした中国の国内情勢も、注視していく必要がある。
しつこいようだが読売新聞には、まずもう一度、1953年8月3日の第16特別国会(衆議院)での「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案」を確認願いたい、と申し上げたい。その上で、「A級戦犯」が「犯罪人」かどうか、そんなことを小泉首相に確認する事にどんな意味があるのだ。極東裁判が、例え事後法に基づく不当な裁判だったにせよ、日本政府はこれを受け入れているのだ。今更、罪を償えば「犯罪人」ではない、といったことを言ったところでどんな意味がある。それより
“犯罪人”として認識しているのであれば、「A級戦犯」が合祀(ごうし)されている靖国神社に、参拝すべきではない。
などという威勢ばかりいい発言こそナンセンスではないか!アメリカ建国の父、ジョージ・ワシントンはイギリスの法律でいえば犯罪者だろう。犯罪者だから参拝しないという意味が解らない。日本は戦争に負けて、連合国の主催した極東国際軍事裁判を呑まざるを得なかった。だから彼らは「犯罪人」の烙印を押された。しかし国内的には許そうということになった。“名誉回復”したのだ。…これで、どこに問題があろう。
この犯罪者の「烙印」は、間違って押されただけかも知れない。しかし日本政府はこの裁判を受け入れたのだ。国内的には「犯罪人」でなかったとしても、政府を代表する小泉首相としては、「犯罪人」と呼ばねばならないのだ。
読売社説は、そのあと「分祀」論を唱え、ただし靖国という宗教法人に圧力をかけることは適当でないと述べ、ついには、
靖国神社が、神道の教義上「分祀」は不可能と言うのであれば、「問題解決」には、やはり、無宗教の国立追悼施設を建立するしかない。~~米国のアーリントン墓地には、外国の元首などがしばしば献花を行う中心施設として無名戦士の墓碑がある。~~国立追悼施設も、屋外施設でよい。東京都心の新宿御苑の一角に、記念碑のような追悼施設を建てればいいとの議論があるが、十分に検討に値する。
と言い出すのである。
そもそも、筆者には、こういった施設を作ることの積極的意味が全く解らない。まずはA級戦犯を排除することだけが目的ならば、再度、1953年8月3日の「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する国会決議」の話になるし、読売社説自身が述べているように、極東裁判が国際法上妥当なものであるかどうかについては、疑義の声があり、重光や賀屋の入閣、さらには書いていないが岸の首相就任などの時点で、すでに「A級戦犯」はほぼ“名誉回復”されているといえるだろうし、そもそもA級戦犯は「戦争責任者」ではあっても“犯罪人”ではない、とする議論も根強くある、という。それでも積極的に、彼らを排除するどれほどの意味があろう。
では、「無宗教」の施設にすることが目的だというなら、先の5月18日付け記事でも述べたが、こんな無意味なことはない。まずそれだけなら千鳥ヶ淵に行けばいい。何故、千鳥ヶ淵では駄目なのか。結局大規模な慰霊行事をするには狭いという事なのであろうか。ただし現状でも、首相の慰霊だけなら千鳥ヶ淵で充分ではないか。何故、千鳥ヶ淵を利用しないのか?要は、結局、新たな無宗教の国立追悼施設を作ったところで、それをどう考えるかという事にほかなるまい。
そもそも追悼とは、それ自身が宗教的行為である。「無宗教」の人間から言えば、たとえ「無宗教」の追悼施設だろうと、追悼施設建設そのものが憲法違反だと主張したくなるものではなかろうか。また広島の原爆慰霊碑や長崎の平和祈念像などは、なるほど「無宗教」の施設であるだろう。しかしここに眠られている多くの原爆被害者たちの中には、当然「自分はあくまで自分のお寺に入りたかった」という人もいるだろう。靖国に入りたかったという人だっているかも知れない。結局「無宗教」とは、「無宗教」というひとつの宗教にほかならないのである。
読売新聞は、さらに、
ただ、小泉首相が靖国参拝をやめたからといって、ただちに日中関係が改善されるわけではない。
とも述べる。実際そのとおりであろう。「中曽根首相はその翌年に、中国の抗議に屈して、靖国神社への参拝を中止した。いわば中国に外交カードを与える結果になった“失政”が今日の混乱を招いた。」とも記しているが、まさにここに中国が、我が国に対して「ゴネ得」を体感したのでは無かろうか。とすれば、ここで中国の抗議から、新たな国立追悼施設を作るなどということが、またどういう結果をもたらすか、推して知るべきである。
まさに読売社説の論旨そのものが、国立追悼施設の建設が意味のないものであることを主張しているという、実に不思議な「社説」なのである。~もしかしたら、読売は、このような揚げ足のとりやすい問題提起をする事によって、こういった議論を整理しようとしているのかも知れない。
ただし、最初に「マスコミ報道に対する違和感」と書いたが、最も違和感を感じるのは、このような日本人のメンタルな問題ともいうべき問題を、このように書き立てて外交問題にしてしまうマスコミの対応である。そもそも首相といえども、正月は初詣をしてもよかろうし、クリスマスにお祈りしつつケーキを食べても構わないだろう。実際、伊勢神宮だってたまには参拝もしている。これだって、考えようによっては、かなり微妙な問題である。それでもこちらについては特に議論とはされない。なぜ殊更、靖国参拝だけを問題視し、さらには「公人ですか私人ですか?」などと、全く意味のない、ただただ外交問題の惹起させたいというような愚問を発し続けるのだろう?
否、日本では厳格なキリスト教徒であろうと、仏教徒であろうと、イスラム教徒であろうと首相になることは可能である。まさにそれこそが憲法のいう「宗教の自由」である。そういった首相が、自らの信念(宗教的良心)に基づいて、自らの宗教で、国家のために尽くした人々に慰霊する…これさえ出来れば、どんな施設でも問題あるまい。ちなみに靖国神社は、世界各国からの参拝を受け入れており、ダライ・ラマのような宗教指導者でも、違和感なく参拝をしているのが現状である。
社説も紹介せず、かくいうのはどうかとも思うが、朝日新聞などは、ことさら日中関係重視を言うなら、首相の参拝などは、新聞社側で、あれは私人としての参拝だと勝手に決めつけ、中国に配慮したらどうだろうか?
というのは、この問題については、筆者はすでに5月18日付けの拙記事「靖国参拝問題について」で、筆者としての見解を述べており、それ以後一週間半ほどの間、この問題に関する様々な報道がなされたが、上記見解は、まったく揺るいでいない。
あえて補足することがあるとすれば、マスコミ報道に対する違和感だけである。例えば、5月26日の森岡正弘厚生労働大臣政務官の発言に関する報道については、e_r_i_c_t 氏のブログ「不可視型探照灯」、「朝日新聞の「森岡代議士」発言が、社説と記事とで違う。しかし……」や、gori氏のブログ「Irregular Expression」、「嘘吐き朝日新聞は森岡議員に謝罪せよ」などが詳しいが、朝日新聞が森岡政務官の発言を歪曲してしまったのは、結局、マスコミが1953年8月3日の第16特別国会(衆議院)での「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案」を把握していないからなのではないだろうか。もしそうだとすれば、勉強不足も甚だしい。他ではともかく、本ブログでは、8月3日と日付まで特定しているので、国会図書館のホームページから議事録検索して頂ければ、どういう議論であったかも、確認していただけるだろう。
ただし読売までが、6月4日付けの社説で読売社説「靖国参拝問題 国立追悼施設の建立を急げ」をかかげた。筆者は、先の5月18日にも述べたとおり、この国立追悼施設建設に対しても、完全に反対である。やはりもう一言コメントしておかねばならないのではないか…と思い直した。
例によって、本ページでは、この読売社説を全文掲載する。(これに対し著作権云々を問題にする向きもあるようだが、筆者は、そういった議論こそ「言論の自由」に対する大きな挑戦であると考えるので、遠慮無く掲載させていただく。)
小泉首相は、いったいこれまで、どのような歴史認識、歴史観に基づいて靖国神社に参拝していたのだろうか。
2日の衆院予算委員会で、小泉首相は民主党の岡田代表の質問に答弁し、極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪とされた、いわゆるA級戦犯について「戦争犯罪人であるという認識をしている」と述べた。
“犯罪人”として認識しているのであれば、「A級戦犯」が合祀(ごうし)されている靖国神社に、参拝すべきではない。
連合国軍総司令部(GHQ)が定めた「裁判所条例」に基づく東京裁判が、国際法上妥当なものであるかどうかについては、当時から内外に疑問の声があった。インド代表のパル判事による「全員無罪」の判決書はその典型である。
フランス代表のベルナール判事や、オランダ代表のレーリンク判事も、裁判所条例の合法性や、国際法上の適用に疑問を表明した。
また、サンフランシスコ講和条約発効後、いわゆるA級戦犯の刑死は国内法上は「公務死」の扱いにされた。
「A級戦犯」として禁固7年とされた重光葵氏は、戦後、鳩山内閣の副総理・外相となった。終身刑「A級戦犯」だった賀屋興宣氏は、池田内閣の法相を務めている。言うなれば“犯罪人”が法の番人になったわけである。
しかし、「A級戦犯」が閣僚として、“名誉回復”されたことについて、諸外国からとりたてて異議はなかった。
そうした歴史的経緯から、いわゆるA級戦犯は、「戦争責任者」ではあっても“犯罪人”ではない、とする議論も根強くある。
いわゆるA級戦犯が、靖国神社に合祀されたのは1978年のことである。翌79年に、そのことが明らかになるが、当時の大平首相、次の鈴木首相は、従来通り、靖国神社に参拝している。
大平首相は「A級戦犯あるいは大東亜戦争というものについての審判は、歴史が致すであろうと私は考えております」として、いわゆるA級戦犯が“犯罪人”であるかどうかについての認識表明は留保した。
小泉首相は、岡田代表の質問に答える中で「首相の職務として参拝しているものではない。私の信条から発する参拝」と述べ、私人として参拝しているとの立場を表明した。
私的参拝であるなら、参拝の方法も考えるべきではないか。昇殿し、「内閣総理大臣」と記帳するのは、私的参拝としては問題がある。
公的、私的の区別については、三木首相が1975年に参拝した際に「私人」と言って以来、関心の対象となったが、その後の首相は、概(おおむ)ね公私の区別について、あいまいにしていた。
鈴木首相の時代には、公私の区別についての質問には答えないという方針を打ち出している。
しかし、小泉首相のようにはっきりと「首相の職務として参拝しているものではない」と言うなら、話は別である。
首相の靖国参拝を巡っては、以前から「問題解決」の方法としてのA級戦犯分祀論がある。だが、現在の靖国神社は、一宗教法人だ。政治が「分祀」せよと圧力をかけることは、それ自体、憲法の政教分離原則に反することになろう。
「分祀」するかどうか、あるいは「分祀」できるかできないかなど、祭祀の内容を解釈するのは、一宗教法人としての靖国神社の自由である。
ただ、国内にはさまざまな宗教・宗派があり、現実に、宗教上の理由からの靖国参拝反対論も多い。
靖国神社が、神道の教義上「分祀」は不可能と言うのであれば、「問題解決」には、やはり、無宗教の国立追悼施設を建立するしかない。
小泉内閣の誕生した2001年、福田官房長官の私的懇談会が、戦没者の追悼のあり方について検討を進め、翌年には国立、無宗教の追悼・平和祈念施設の建設を提言する報告書をまとめている。
どのような施設にするのか、どう追悼するのかといった点で、報告書は具体性に乏しい面もあるが、早急にその内容を詰め、新しい追悼施設の建立に着手すべきだろう。
米国のアーリントン墓地には、外国の元首などがしばしば献花を行う中心施設として無名戦士の墓碑がある。
国立追悼施設も、屋外施設でよい。東京都心の新宿御苑の一角に、記念碑のような追悼施設を建てればいいとの議論があるが、十分に検討に値する。
毎年、8月15日に政府が主催している全国戦没者追悼式は、従来通り東京・九段の日本武道館で行えばいい。
ただ、小泉首相が靖国参拝をやめたからといって、ただちに日中関係が改善されるわけではない。
もともと、A級戦犯合祀が明らかになった後も、大平、鈴木首相の靖国神社参拝に対し、中国からの表立った異議はなかった。
異議を唱えるようになったのは、1985年に中曽根首相が「公式参拝」の形をとってからである。中曽根首相はその翌年に、中国の抗議に屈して、靖国神社への参拝を中止した。いわば中国に外交カードを与える結果になった“失政”が今日の混乱を招いた。
その後、天安門事件で共産党統治の求心力に危機感を抱いた中国は、「愛国・反日教育」の強化に転じ、年々歳々、膨大な数の反日世代を育て続けている。
4月に行われた反日デモのスローガンは、当初、日本の国連安保理常任理事国入りの問題であり、台湾問題だった。
今後の日中関係を考えるうえで、そうした中国の国内情勢も、注視していく必要がある。
しつこいようだが読売新聞には、まずもう一度、1953年8月3日の第16特別国会(衆議院)での「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案」を確認願いたい、と申し上げたい。その上で、「A級戦犯」が「犯罪人」かどうか、そんなことを小泉首相に確認する事にどんな意味があるのだ。極東裁判が、例え事後法に基づく不当な裁判だったにせよ、日本政府はこれを受け入れているのだ。今更、罪を償えば「犯罪人」ではない、といったことを言ったところでどんな意味がある。それより
“犯罪人”として認識しているのであれば、「A級戦犯」が合祀(ごうし)されている靖国神社に、参拝すべきではない。
などという威勢ばかりいい発言こそナンセンスではないか!アメリカ建国の父、ジョージ・ワシントンはイギリスの法律でいえば犯罪者だろう。犯罪者だから参拝しないという意味が解らない。日本は戦争に負けて、連合国の主催した極東国際軍事裁判を呑まざるを得なかった。だから彼らは「犯罪人」の烙印を押された。しかし国内的には許そうということになった。“名誉回復”したのだ。…これで、どこに問題があろう。
この犯罪者の「烙印」は、間違って押されただけかも知れない。しかし日本政府はこの裁判を受け入れたのだ。国内的には「犯罪人」でなかったとしても、政府を代表する小泉首相としては、「犯罪人」と呼ばねばならないのだ。
読売社説は、そのあと「分祀」論を唱え、ただし靖国という宗教法人に圧力をかけることは適当でないと述べ、ついには、
靖国神社が、神道の教義上「分祀」は不可能と言うのであれば、「問題解決」には、やはり、無宗教の国立追悼施設を建立するしかない。~~米国のアーリントン墓地には、外国の元首などがしばしば献花を行う中心施設として無名戦士の墓碑がある。~~国立追悼施設も、屋外施設でよい。東京都心の新宿御苑の一角に、記念碑のような追悼施設を建てればいいとの議論があるが、十分に検討に値する。
と言い出すのである。
そもそも、筆者には、こういった施設を作ることの積極的意味が全く解らない。まずはA級戦犯を排除することだけが目的ならば、再度、1953年8月3日の「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する国会決議」の話になるし、読売社説自身が述べているように、極東裁判が国際法上妥当なものであるかどうかについては、疑義の声があり、重光や賀屋の入閣、さらには書いていないが岸の首相就任などの時点で、すでに「A級戦犯」はほぼ“名誉回復”されているといえるだろうし、そもそもA級戦犯は「戦争責任者」ではあっても“犯罪人”ではない、とする議論も根強くある、という。それでも積極的に、彼らを排除するどれほどの意味があろう。
では、「無宗教」の施設にすることが目的だというなら、先の5月18日付け記事でも述べたが、こんな無意味なことはない。まずそれだけなら千鳥ヶ淵に行けばいい。何故、千鳥ヶ淵では駄目なのか。結局大規模な慰霊行事をするには狭いという事なのであろうか。ただし現状でも、首相の慰霊だけなら千鳥ヶ淵で充分ではないか。何故、千鳥ヶ淵を利用しないのか?要は、結局、新たな無宗教の国立追悼施設を作ったところで、それをどう考えるかという事にほかなるまい。
そもそも追悼とは、それ自身が宗教的行為である。「無宗教」の人間から言えば、たとえ「無宗教」の追悼施設だろうと、追悼施設建設そのものが憲法違反だと主張したくなるものではなかろうか。また広島の原爆慰霊碑や長崎の平和祈念像などは、なるほど「無宗教」の施設であるだろう。しかしここに眠られている多くの原爆被害者たちの中には、当然「自分はあくまで自分のお寺に入りたかった」という人もいるだろう。靖国に入りたかったという人だっているかも知れない。結局「無宗教」とは、「無宗教」というひとつの宗教にほかならないのである。
読売新聞は、さらに、
ただ、小泉首相が靖国参拝をやめたからといって、ただちに日中関係が改善されるわけではない。
とも述べる。実際そのとおりであろう。「中曽根首相はその翌年に、中国の抗議に屈して、靖国神社への参拝を中止した。いわば中国に外交カードを与える結果になった“失政”が今日の混乱を招いた。」とも記しているが、まさにここに中国が、我が国に対して「ゴネ得」を体感したのでは無かろうか。とすれば、ここで中国の抗議から、新たな国立追悼施設を作るなどということが、またどういう結果をもたらすか、推して知るべきである。
まさに読売社説の論旨そのものが、国立追悼施設の建設が意味のないものであることを主張しているという、実に不思議な「社説」なのである。~もしかしたら、読売は、このような揚げ足のとりやすい問題提起をする事によって、こういった議論を整理しようとしているのかも知れない。
ただし、最初に「マスコミ報道に対する違和感」と書いたが、最も違和感を感じるのは、このような日本人のメンタルな問題ともいうべき問題を、このように書き立てて外交問題にしてしまうマスコミの対応である。そもそも首相といえども、正月は初詣をしてもよかろうし、クリスマスにお祈りしつつケーキを食べても構わないだろう。実際、伊勢神宮だってたまには参拝もしている。これだって、考えようによっては、かなり微妙な問題である。それでもこちらについては特に議論とはされない。なぜ殊更、靖国参拝だけを問題視し、さらには「公人ですか私人ですか?」などと、全く意味のない、ただただ外交問題の惹起させたいというような愚問を発し続けるのだろう?
否、日本では厳格なキリスト教徒であろうと、仏教徒であろうと、イスラム教徒であろうと首相になることは可能である。まさにそれこそが憲法のいう「宗教の自由」である。そういった首相が、自らの信念(宗教的良心)に基づいて、自らの宗教で、国家のために尽くした人々に慰霊する…これさえ出来れば、どんな施設でも問題あるまい。ちなみに靖国神社は、世界各国からの参拝を受け入れており、ダライ・ラマのような宗教指導者でも、違和感なく参拝をしているのが現状である。
社説も紹介せず、かくいうのはどうかとも思うが、朝日新聞などは、ことさら日中関係重視を言うなら、首相の参拝などは、新聞社側で、あれは私人としての参拝だと勝手に決めつけ、中国に配慮したらどうだろうか?
by mt.planter
| 2005-06-06 10:59

