2005年 05月 02日
ODAの増額について |
今日は、久しぶりに毎日の社説を取り上げたい。以下のものである。まずはお読み頂きたい。
毎日社説「ODA増額 小泉首相は援助哲学を示せ」
小泉純一郎首相が先にジャカルタで開かれたアジア・アフリカ首脳会議で日本の政府開発援助(ODA)を国民総所得(GNI)比0・7%の国際目標を達成するため、十分な水準を確保することを表明した。同時に、7月の主要国首脳会議(グレンイーグルズ・サミット)で主要議題になるアフリカ支援でも、3年間でODAを贈与を中心に倍増することを約束した。
ODA大国と言われてきた日本だが、実績ではすでに米国には抜かれている。現状の予算編成が続けば1、2年のうちには独仏にも抜かれる可能性が大きい。財政当局は財政破たんの現状では、それもやむを得ないという姿勢だ。国民の間にも依然として、赤字財政下で援助を特別扱いする必要があるのかという感情が強い。
そうした中で、あえて、小泉首相がODAの増額につながる発言をしたのは、アジア・アフリカ諸国を前にしての国連安全保障理事会の常任理事国入りに向けた国際貢献アピールという色彩が濃いことは間違いない。ただ、国際会議の場での発言の意味は重い。
02年3月、メキシコのモンテレイで開かれた開発資金国際会議以降、欧米諸国はODAの増額を表明した。中でも、英、仏、独の3カ国は対GNI比0・7%の目標達成を表明している。04年実績で0・19%の日本が中期的にみても0・7%に達することは不可能だが、では、どのようにするのか具体的に示さなければならない。
また、アフリカ援助の中心が贈与になることはその通りだろう。同時に、今後、政府がアフリカ開発銀行を活用した円借款の供与も表明している。無償資金協力や技術協力と有償資金協力を危機的に組み合わせることで、経済社会のかさ上げを図ろうという狙いだが、そう簡単なことなのか。
アフリカへの援助は旧宗主国の英仏が中心になっており、円借款を毎年度供与している数カ国を除けば、日本が主導権を発揮することは難しい。一方で、欧州勢のこれまでの援助は、所得補てん的な色彩が濃く、全体として経済社会のかさ上げに必ずしもつながっていない。
アフリカ向け援助増額という以上、日本なりの具体像を提示することが求められる。農村自立やマラリア対策など技術協力、草の根・人間の安全保障など無償に近いものは国民の納得が得られよう。
ただ、円借款では重債務最貧国(HIPC)の債務棒引きと関連し、実現可能なのか。アフリカ開発銀行経由で日本の意図を貫徹することはできるのか。また、融資した後、焦げ付くことがないとはいえない。
援助にこうした危険はつきものであり、贈与を増やすことは予算面での負担は大きい。
一般会計で8000億円を割り込んだODA予算をさらに削減していくことは、日本にとってプラスになるとは思えない。小泉首相もそのことに気付いたのであろう。それならば、自身の援助哲学を披歴することが望まれる。
A・A首脳会議での小泉首相のODA増額発言については、すでに拙ブログでも、4月26日のエントリー「インドネシアでの小泉首相」 でとりあげている。この発言を外務省のHPより再度確認しておこう。
ミレニアム開発目標に寄与するため、ODA(政府開発援助)の対GNI(国民総所得)比0.7%目標の達成に向け引き続き努力する。」と述べるとともに、「防災・災害復興対策については、アジア・アフリカ地域を中心として今後5年間で25億ドル以上の支援を行う。」、「今後3年間でアフリカ向けODAを倍増する。」と表明しました。
ここで筆者は「ODA問題は、色々議論の多いところである。今回、特にアフリカ向けODAの増額を、首相の意向として打ち出されたことぐらい、日本のマスコミも、少しぐらいは報道しろよ!」と記したのであるが、ようやくこれに触れたというのが、この社説である。
しかし残念ながら、本社説からはODAを今後どうしていくべきか、毎日新聞としての意見は伺えない。「一般会計で8000億円を割り込んだODA予算をさらに削減していくことは、日本にとってプラスになるとは思えない。小泉首相もそのことに気付いたのであろう。それならば、自身の援助哲学を披歴することが望まれる。」と言ってみたところでどうなるのか?「社説」などといえるのであろうか?
このODA問題は難しい問題である。これについては、愛読している「マーケットの馬車馬」さんが、かなり以前に実に興味深い考察を記しておられる。
「金貸しがエラい理由」2005年1月10日付
「ODAという自己満足」2005年1月31日付
まさに目から鱗!の考察で、大変面白く読ませて頂いたものである。モラルハザードという現状に悲しくなるしかないような考察なのだが、氏も言うとおり借款と供与の考え方について外務省は整理し直す必要だけは間違いないだろう。そもそもその使用目的もあいまいなまま、さらに事業成功の見込みも不十分なまま金を貸しても、不良債権になるだけなのは、日本のバブル期の銀行を見ても明らかである。ただし以下の議論は、少し酷かも知れないとは思う。
日本のODAのひとつの特徴は借款が圧倒的に多いこと、というのは良く言われる話だ。それに対して、「金はあげてしまうよりも貸したほうが相手のやる気を刺激するから良い」というのがずいぶん前から外務省が使っている理屈なわけだが、そもそもこの辺りからして怪しい。~金は貸したほうが途上国のためになる、という理屈を考え付いた(おそらくは)外務省の人間は、国内金融と国際金融の決定的な違いについて考えが及ばなかったのだろう。」
というのは、それでも筆者などは「金はあげてしまうよりも貸したほうが相手のやる気を刺激する」という議論を、完全に否定しきれないのである。もちろん氏の言うとおり、モラルハザードの社会では、国が富むこと以前に、施政者個人が富むことの方が、施政者としては、継続的・合理的に国を富ませることができるという考え方が、現実であろう。例えば、あのフィリピン・マルコス大統領などは、必ずしも独裁者とは言えない、かなり優秀な施政者であったと筆者は考えているが、それでも「イメルダ夫人の靴」は忘れられない。確かに「事業」は雇用を生むが、同時に「金持ち」もまた雇用を生むのである。
しかしそれでも贈与は、結局それだけとなってしまいかねないことも確かである。やはり可能な限り借款を有効に使って欲しいと考えるのは、間違いだろうか?結局は、贈与にせよ借款にせよ、その金を使う事業を明確にし、事業成功の見通しの元、技術者の派遣はもとより、その事業を成功させ得る優秀な経営者の派遣等もあわせて進められなければ、結局、変わらないだろう。
そればかりではない。インドネシアのスハルト大統領一族に見られるように、贈与にせよ円借款にせよ、それを元に大統領の一族が国内産業を独占してしまうような、いびつな産業成長をもたらしても、結局、後々嫌われるのは日本である。
一方、先の「マーケットの馬車馬」さんのエントリー「ODAという自己満足」へのコメント欄で、実際のODA実績を確認する必要性も感じた。で、外務省のHPを見ておきたい。
「ODA実績白書 第II部 2003年度のODA実績」
これによれば、贈与額5,266億円に対し、貸付額は7,034億円となっており、必ずしも円借款が中心とも言えないようだ。外務省も、少しずつ「マーケットの馬車馬」さんの指摘のような現状に気付きつつあるのかも知れない。そもそも貸した金は、半ば諦める位でないと、親しい関係ではいられないというのは、一般社会でも同じである。
ではアフリカ援助をどう進めていくか?やはりこれは一般論で語ることは不可能だろう。結局、外交官の方々の、その国その国に対する深い知識に依る、と言わざるを得まい。今回のニュースでは、アフリカへのODA実績は、贈与を中心に増やすとのことである。もちろんそれが間違いだと言うつもりはない。しかしそれでも、可能な限りその使用目的を明確にし、金を出した分だけは、その金の使い道に対して発言も出来るような関係が必要であろう。その意味で中国へのODAなどは見直すべきでもあるのだ!
ただし最初に記したことであるが、ODAの目的を再度明確にして、その目的に添って行うことが何より重要であろう。その上で、「曇りのち晴れ」さんの 提案する、以下の議論も大いに検討されるべき余地があろう。
また、ハード面の援助よりも「顔の見える」ソフト面の人的援助に重心を移すべきとも思います。日本の成功は人的パワーの賜物なのですから、将来の成長の中核を担う人材の育成などを目標にするほうが発展途上諸国のためにもなります。
まさに「言うは易し」という議論ではあろうが、やはりこういったことから考えていかない限り、ODAは結局、金貸しが貸した人から恨まれるような、マイナスの効果さえ及ぼしかねない。毎日新聞ではないが、筆者は、小泉さんではなく、外務省に対して、明確な援助哲学を打ち立ててもらいたいものである。
毎日社説「ODA増額 小泉首相は援助哲学を示せ」
小泉純一郎首相が先にジャカルタで開かれたアジア・アフリカ首脳会議で日本の政府開発援助(ODA)を国民総所得(GNI)比0・7%の国際目標を達成するため、十分な水準を確保することを表明した。同時に、7月の主要国首脳会議(グレンイーグルズ・サミット)で主要議題になるアフリカ支援でも、3年間でODAを贈与を中心に倍増することを約束した。
ODA大国と言われてきた日本だが、実績ではすでに米国には抜かれている。現状の予算編成が続けば1、2年のうちには独仏にも抜かれる可能性が大きい。財政当局は財政破たんの現状では、それもやむを得ないという姿勢だ。国民の間にも依然として、赤字財政下で援助を特別扱いする必要があるのかという感情が強い。
そうした中で、あえて、小泉首相がODAの増額につながる発言をしたのは、アジア・アフリカ諸国を前にしての国連安全保障理事会の常任理事国入りに向けた国際貢献アピールという色彩が濃いことは間違いない。ただ、国際会議の場での発言の意味は重い。
02年3月、メキシコのモンテレイで開かれた開発資金国際会議以降、欧米諸国はODAの増額を表明した。中でも、英、仏、独の3カ国は対GNI比0・7%の目標達成を表明している。04年実績で0・19%の日本が中期的にみても0・7%に達することは不可能だが、では、どのようにするのか具体的に示さなければならない。
また、アフリカ援助の中心が贈与になることはその通りだろう。同時に、今後、政府がアフリカ開発銀行を活用した円借款の供与も表明している。無償資金協力や技術協力と有償資金協力を危機的に組み合わせることで、経済社会のかさ上げを図ろうという狙いだが、そう簡単なことなのか。
アフリカへの援助は旧宗主国の英仏が中心になっており、円借款を毎年度供与している数カ国を除けば、日本が主導権を発揮することは難しい。一方で、欧州勢のこれまでの援助は、所得補てん的な色彩が濃く、全体として経済社会のかさ上げに必ずしもつながっていない。
アフリカ向け援助増額という以上、日本なりの具体像を提示することが求められる。農村自立やマラリア対策など技術協力、草の根・人間の安全保障など無償に近いものは国民の納得が得られよう。
ただ、円借款では重債務最貧国(HIPC)の債務棒引きと関連し、実現可能なのか。アフリカ開発銀行経由で日本の意図を貫徹することはできるのか。また、融資した後、焦げ付くことがないとはいえない。
援助にこうした危険はつきものであり、贈与を増やすことは予算面での負担は大きい。
一般会計で8000億円を割り込んだODA予算をさらに削減していくことは、日本にとってプラスになるとは思えない。小泉首相もそのことに気付いたのであろう。それならば、自身の援助哲学を披歴することが望まれる。
A・A首脳会議での小泉首相のODA増額発言については、すでに拙ブログでも、4月26日のエントリー「インドネシアでの小泉首相」 でとりあげている。この発言を外務省のHPより再度確認しておこう。
ミレニアム開発目標に寄与するため、ODA(政府開発援助)の対GNI(国民総所得)比0.7%目標の達成に向け引き続き努力する。」と述べるとともに、「防災・災害復興対策については、アジア・アフリカ地域を中心として今後5年間で25億ドル以上の支援を行う。」、「今後3年間でアフリカ向けODAを倍増する。」と表明しました。
ここで筆者は「ODA問題は、色々議論の多いところである。今回、特にアフリカ向けODAの増額を、首相の意向として打ち出されたことぐらい、日本のマスコミも、少しぐらいは報道しろよ!」と記したのであるが、ようやくこれに触れたというのが、この社説である。
しかし残念ながら、本社説からはODAを今後どうしていくべきか、毎日新聞としての意見は伺えない。「一般会計で8000億円を割り込んだODA予算をさらに削減していくことは、日本にとってプラスになるとは思えない。小泉首相もそのことに気付いたのであろう。それならば、自身の援助哲学を披歴することが望まれる。」と言ってみたところでどうなるのか?「社説」などといえるのであろうか?
このODA問題は難しい問題である。これについては、愛読している「マーケットの馬車馬」さんが、かなり以前に実に興味深い考察を記しておられる。
「金貸しがエラい理由」2005年1月10日付
「ODAという自己満足」2005年1月31日付
まさに目から鱗!の考察で、大変面白く読ませて頂いたものである。モラルハザードという現状に悲しくなるしかないような考察なのだが、氏も言うとおり借款と供与の考え方について外務省は整理し直す必要だけは間違いないだろう。そもそもその使用目的もあいまいなまま、さらに事業成功の見込みも不十分なまま金を貸しても、不良債権になるだけなのは、日本のバブル期の銀行を見ても明らかである。ただし以下の議論は、少し酷かも知れないとは思う。
日本のODAのひとつの特徴は借款が圧倒的に多いこと、というのは良く言われる話だ。それに対して、「金はあげてしまうよりも貸したほうが相手のやる気を刺激するから良い」というのがずいぶん前から外務省が使っている理屈なわけだが、そもそもこの辺りからして怪しい。~金は貸したほうが途上国のためになる、という理屈を考え付いた(おそらくは)外務省の人間は、国内金融と国際金融の決定的な違いについて考えが及ばなかったのだろう。」
というのは、それでも筆者などは「金はあげてしまうよりも貸したほうが相手のやる気を刺激する」という議論を、完全に否定しきれないのである。もちろん氏の言うとおり、モラルハザードの社会では、国が富むこと以前に、施政者個人が富むことの方が、施政者としては、継続的・合理的に国を富ませることができるという考え方が、現実であろう。例えば、あのフィリピン・マルコス大統領などは、必ずしも独裁者とは言えない、かなり優秀な施政者であったと筆者は考えているが、それでも「イメルダ夫人の靴」は忘れられない。確かに「事業」は雇用を生むが、同時に「金持ち」もまた雇用を生むのである。
しかしそれでも贈与は、結局それだけとなってしまいかねないことも確かである。やはり可能な限り借款を有効に使って欲しいと考えるのは、間違いだろうか?結局は、贈与にせよ借款にせよ、その金を使う事業を明確にし、事業成功の見通しの元、技術者の派遣はもとより、その事業を成功させ得る優秀な経営者の派遣等もあわせて進められなければ、結局、変わらないだろう。
そればかりではない。インドネシアのスハルト大統領一族に見られるように、贈与にせよ円借款にせよ、それを元に大統領の一族が国内産業を独占してしまうような、いびつな産業成長をもたらしても、結局、後々嫌われるのは日本である。
一方、先の「マーケットの馬車馬」さんのエントリー「ODAという自己満足」へのコメント欄で、実際のODA実績を確認する必要性も感じた。で、外務省のHPを見ておきたい。
「ODA実績白書 第II部 2003年度のODA実績」
これによれば、贈与額5,266億円に対し、貸付額は7,034億円となっており、必ずしも円借款が中心とも言えないようだ。外務省も、少しずつ「マーケットの馬車馬」さんの指摘のような現状に気付きつつあるのかも知れない。そもそも貸した金は、半ば諦める位でないと、親しい関係ではいられないというのは、一般社会でも同じである。
ではアフリカ援助をどう進めていくか?やはりこれは一般論で語ることは不可能だろう。結局、外交官の方々の、その国その国に対する深い知識に依る、と言わざるを得まい。今回のニュースでは、アフリカへのODA実績は、贈与を中心に増やすとのことである。もちろんそれが間違いだと言うつもりはない。しかしそれでも、可能な限りその使用目的を明確にし、金を出した分だけは、その金の使い道に対して発言も出来るような関係が必要であろう。その意味で中国へのODAなどは見直すべきでもあるのだ!
ただし最初に記したことであるが、ODAの目的を再度明確にして、その目的に添って行うことが何より重要であろう。その上で、「曇りのち晴れ」さんの 提案する、以下の議論も大いに検討されるべき余地があろう。
また、ハード面の援助よりも「顔の見える」ソフト面の人的援助に重心を移すべきとも思います。日本の成功は人的パワーの賜物なのですから、将来の成長の中核を担う人材の育成などを目標にするほうが発展途上諸国のためにもなります。
まさに「言うは易し」という議論ではあろうが、やはりこういったことから考えていかない限り、ODAは結局、金貸しが貸した人から恨まれるような、マイナスの効果さえ及ぼしかねない。毎日新聞ではないが、筆者は、小泉さんではなく、外務省に対して、明確な援助哲学を打ち立ててもらいたいものである。
by mt.planter
| 2005-05-02 11:18